手許にあるものを摑みとる
学びとは、はじめから自分の手許にあるものを摑みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で摑みとるように導くことだ。そう彼は論じるのである。
「数学する身体」 森田真生 新潮社 30ページ
「学び」を「健康」に置き換え、「教える」を「治療」に置き換えると、そのまま治療と健康について、真実を伝えている文章になります。なぜなら、教育と医療は似たような性格も持つものだからです。
それは、教育と医療を、経済効率や市場の競争原理で捉えてはいけない、ということです。
教育と医療に市場原理と持ち込むと、児童・生徒・学生とその保護者、および患者は「賢い消費者」であろうとします。
市場では等価交換をスタートとして、自分の出費以上の価値を相手から得るのが「賢い消費者」=「金銭的価値に換算した特をするもの」ですから、教育に投下した学費、治療に投下した治療費以上の対価を得ようとします。
でも、教育も治療も、「人間というナマモノ」を対象とした行為です。
目指しているのは、健やかな身体と人格形成であって、「どれだけ金を稼ぐか」ではありません。
治療において、「消費者として振る舞う」人たちには、深い治療効果はあまり期待できません。
なぜなら、その人の「症状」は「消費者として振る舞う」その「構え」に原因があるからです。
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